内面を豊かにすることが環境保護につながる可能性を信じたい。

 

 

①罪深い人類は滅亡するべきなのか。

目の前に突きつけられる環境問題。

人類の飽くなき欲望により、地球生態系は回復不能な危機を迎えている。

地球を守るためには、人類は滅亡した方が良いのだろうか。

 

江戸時代までは自然と共生する生活が営まれていたのだとすると、問題の根源は資本主義なのか、帝国主義なのか、産業革命なのか。

あるいは、有史以前の農業革命により食物を栽培して手に入れたことがいけなかったのか。

 

地球生態系のためには、人類は誕生しない方が良かったのではないか。

考えれば考えるほど、破滅思考に進んでいきます。

 

なぜ、私は人間として誕生してしまったのだろう。

自然を守らないといけないと頭でわかっていても、便利で楽な暮らしを手放せない自分。こんなに汚れた自分は、神聖なガイアに存在することは許されない。

存在を許されたいと思ったら、社会のため、生態系のために役立つ存在として、自分のすべてを差し出さなければならない。

だけど、そんなことは不可能だ。私にも貪欲な欲求があり、願いがある。

だったら、やはり、人類は誕生するべきではなかったのだ。

 

②人類が地球に誕生したことには意味がある。

だけど、心のどこかで、「人類が地球に誕生したことには意味がある。」という声がしていました。

自己を否定してしまうような複雑な自我をもつ人類こそが、自己を肯定する力を取り戻すことで、宇宙の成長に貢献できるのではないかと感じていました。

 

2016年7月、facebookにこんな投稿をしました。

「地球がヒトに望むことが、地球を守ることではなく、魂の成長だったとしたら・・・。」という可能性を思いついた夏の夜。(facebook投稿2016.7.26)

 

この投稿には、友人から「宇宙がそう望んでいるらしい。byアリス・ベイリー」というコメントをもらっていました。

しかし普通に考えたら、生態系を守るという命題と人間としての欲求はどこまでも平行線であり、無力感が大きくなるばかりでした。

ところが最近、ケン・ウィルバーの『進化の構造1』の記載を読んで、勇気づけられて、涙が出そうになったのです。

 

私たちは、エコロジカルな癒しを開始する以前に、まずお互いの理解とお互いの合意に到達しなければらない。

癒しへの推進力はまずお互いの理解から生まれる。

そしてお互いの理解は、まず個人が成長し、変容することにかかっているのである。

(ケン・ウィルバー『進化の構造1』より)

 

ウィルバーは、地球生態系に危機があることは認めています。しかし一貫して『生物圏を絶対視することは生物圏を破壊する。』と主張しているのです。

どういう意味でしょうか。

私たちの生命は、自然界を土台として成り立っています。ウィルバーも、「まず最初に自然界を尊重すること。」をしっかり認めています。

ですが、ただひたすらに尊重するだけでは、現代の複雑な問題は解決できないと主張しているのです。

 

 

 

③心の問題に取り組むことが、エコロジーの問題を超越する。

私たち人間は自然界の一部として存在しますが、まったく同じ存在ではありません。

・私たちは、鉱物が持たない生命(複製する遺伝子)を持っています。

・私たちは、植物が持たない感情(神経系)を持っています。

・私たちは動物に属しますが、他の動物が持たない自我(複雑な内面性、心)を持っています。

 

以上はシュタイナーの分類ですが、ウィルバーは鉱物界を物質圏(フィジオスフィア)、生命の世界を生物圏(バイオスフィア)、自我を持つ世界を心圏(ヌースフィア)と呼んでいます。

現代の地球生態系の問題は、人間の経済活動、紛争など、複雑な社会活動と大きく関係しています。

 

複雑怪奇な自我、心圏を持つ人間が地球生態系の問題に取り組むためには、「特定的に心圏と取り組み、そのゆがみの問題に取り組まなければならない」、とするウィルバーの主張は、私の長年の疑問に明快な“解”を与えてくれました。

 

それは特に心圏の自由な交換を目指した理論であり、エコロジーの問題はそれに包含され、超越されるのである。

(ケン・ウィルバー『進化の構造1』より)

 

地球生態系の問題を考えるとき、「私たちも自然の一部であることを思い出しましょう。」とよく言われます。

まったくその通りです。

しかし、私たちは複雑な自我、心を持つ存在であることを置き去りにはできません。心の世界も生態系も含んだ新たな視点への進化、意識の変容、超越が必要なのだと思います。

 

 

 

④内面への遡行は自己中心性を減少する

ウィルバーが超越のために必要だとしているのが、内面への遡行(そこう)です。

内面への遡行とは、自分の内面が成長し、深くなり、複雑性、多様性が増幅していくこと。そして、自己を内省し、省察できるようになることです。

自己に対する内省能力が高まるほど、それを超越できる。主観性、内面性が自己中心性から離脱するのである。

~中略~

そしてこのことは、自己中心から社会中心、そして世界中心性へと連続する道徳反応の発達を促す。

(ケン・ウィルバー『進化の構造1』より抜粋:太字は著者の主観)

 

⑴自己中心的段階

「ワタシ」という価値観で世界を理解しようとする段階。「ワタシ」の視点が社会や世界を理解するための「ものさし」になっている。

⑵合理的段階

他者の思考も含めた合理的な思考ができる段階。所属する「私たち」の文化、集団の視点や歴史を中心に世界を理解する傾向にある段階。

⑶世界中心的段階

「ワタシ」や「私たち」の視点を絶対視することなく、多種多様な視点を統合する「ポスト合理的」な思考が可能になる。「ワタシ」や「私たち」の世界観に埋没しない主体的な「私」を生きることができるようになる。

発達心理学でも、個人の内面化が進むほど自己中心性が減少すると言われています。

内面への遡行によって、自己中心から社会中心、世界中心へとより広い視点を私たちは内側に含むことができるようになるのです。

 

 

 

⑤瞑想は、外側世界の複雑性を開示する。

瞑想は、私たちを内面への遡行に導きます。

しかしそれは、一見、外側世界の問題から目を背けさせているように感じられます。どんなに瞑想しても、地球は温暖化し、砂漠化は進み、食糧問題が解決することはありません。

それでも、瞑想により内面を豊かにすることが、新たな世界中心性への変容に導くとするウィルバーの主張に、私は勇気づけられます。

 

自己中心性の解毒剤としての瞑想は、真実を開示する能力の増大さを意味する。それは、自己中心的なクモの巣を払いのける。

それによってKosmos(コスモス)はより明らかに顕現でき、私たちはそれを直視し、私に何をしてくれるのかではなく、私にとって何であるかについて感謝することができる。

自己の深度が開示されればされるほどに、それに対応するコスモスの深度もまた開示されていくのだ。

(ケン・ウィルバー『進化の構造1』より抜粋:太字、下線は著者の主観)

 

ここでのKosmos(コスモス)とは、物質、生命、心、精神を含む大きな宇宙的世界を指しています。

瞑想は、内面への遡行と同時に、外側世界への理解も深めることができる。

経済、紛争などの社会問題、外側世界の複雑性を理解することは、地球生態系の問題を超越していく鍵になるのだと思います。

 

その力を秘めているのは、HSPと呼ばれる繊細な方なのかもしれません。

 

⑥ウィルバーの主張に可能性を見る

ウィルバーの主張が絶対に正しいのかどうかは、私にもわかりません。実際にネット上では批判的な意見も散見されます。

ですが、私はウィルバーの主張に、人間としての自分への可能性を見出すことができました。

私にも、できることがある。

無力な自分にも、何かできることがあるかもしれないという“力”を感じることができたのです。

 

プロセスワークのワールドワークに出会ったときと似ています。自分は社会問題に対して無力だと感じていたけれど、会議室でワークしているだけでも意味があるのかもしれないと感じたときの感覚です。

人間がガチンコで願いと繋がり合ったその先に、社会の調和が現れてくる。

会議室で体験する温かさが、世界にも広がるといいな。

 

まだまだ私は無力で、欲望も便利さも手放すことができません。無自覚に他者を傷つけることもあるでしょう。

それでも、この時代に人間として生まれてきて、何か成すことができるのなら、それもまた幸せだと感じます。

それは、外側世界に大きな変革を起こすことではないかもしれない。

 

ただ、自分の内面の複雑性に開いていくことだとしても、それが人類の進化への欲求だと感じる、その自分の感覚を信じたいと思っています。

 

プロフィール

飯田 みゆき
飯田 みゆき森と魂のセラピスト
薬剤師/公認心理師/産業カウンセラー/プロセスワークプラクティショナー/森林インストラクター/森林セルフケアコーディネーター/メディカルハーブプラクティショナー/ドルフィンスターテンプル認定ヒーラー/日本森林療法協会元理事

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