インタープリター(通訳者、解説者)は、自然と人との仲介者

自然の知識だけではなく、参加者と一緒に自然を味わい、楽しむ存在。

インタープリターが増えれば、多くの人が自然にやさしく、かつ楽しく関われるようになる。

より抜粋

この言葉に憧れて、「いつかきっとインタープリターになる!!」、活動していた日々がありました。

これは、そんな私が森林療法に出会うまでの物語です。

自然と人を繋ぐ仕事をしたいと思ったきっかけは、タンザニア植林ワークキャンプへの参加でした。物語は、そのツアーに申し込んだきっかけ、1993年秋に青年海外協力隊に申し込んだところからスタートします。

・・・

 

 

①違う自分になりたい症候群だった私

大学卒業後、会社に入って3年目、24歳の私。

自分が嫌いで嫌いで、違う自分になりたい症候群だった私は、とにかく”ココ”ではない異次元空間に行きたくて、青年海外協力隊に申し込みました。

任務地は、どこでもよかった。

薬剤師として募集が数件あったので、何も考えずに申し込み、一次試験に合格し、ホイホイと二次試験面接を受けました。そして、いつのまにか合格。

「ザンビアに来てください。」と、会社に連絡がありました。

どこ、そこ??

と、思いながらも口頭でOKし、通称第三次面接とも呼ばれる「親への報告」をした私。ここからが、想像を絶するバトルでした。

いや、バトルもなにも、当時のへなちょこな私は、第一ラウンドでノックダウン。あっという間にリングを立ち去り、「辞退届」をポストに投函したのでした。

当時は情けなくて仕方がなかったけど、今はそれが最善だったと思えます。

ザンビアはアフリカ大陸南部の国で、親の心配もよぉ~く、わかります。病院勤務経験のない当時の私が赴任しても、何もできない2年間を過ごしていたかもしれません。

実際、青年海外協力隊の2年間で「何もできなかった」と感じる人は多いそうです。

で、私はといえば、「親の説得もできない弱虫な私」というラベルを自分で貼り、さらに自分が嫌いになっていました。

そんなとき見つけたのが、『タンザニア植林ワークキャンプ』のチラシでした

 

 

 

②アフリカの心配する前に自分の行動を考えろよ。~NGOスタッフの言葉に大ショック

青年海外協力隊を諦めたものの、何か自分にを与えるものを探していた私。NGOのツアーが海外の砂漠に植林しているテレビ番組を見て、「こんなふうに、ヒトの役に立つ自分になりたい。」と思っていることに気がつきました。

そこでNGO活動推進センターに出かけ、いろんなNGOが実施しているスタディーツアーのチラシを片っ端から集めてきました。

その中で、ひと際ココロ惹かれたのが、緑の地球防衛基金というNGOが企画していた『タンザニア植林ワークキャンプ』。

もし、パラレルワールドがあるとしたら、行っていたかもしれないアフリカ大陸。

その大地に立って、空気を吸いたい。

さらに植林してきちゃうなんて、なんだか素敵。

ありがたいことに、当時の上司に相談したところ、会社から2週間半という長期休暇をもらって参加することができたのでした。

1994年秋。今から20年以上前のことでした。

このツアーの良さは、行くだけで終わりではなかったこと。担当スタッフの方がとても熱意のある人で、帰ってきてからも写真交換会や飲み会はもちろん、他のNGOの報告会や、その他海外協力に関係するいろんな企画に参加者を誘ってくれたのでした。

ある日、スタッフさん・私・もう一人の参加者と3人でお茶をしていた時のことです。少人数ということで、スタッフさんもいろんな本音を語ってくれました。

『参加者が持って行った石鹸が、現地の大地を汚していることが心配』

というツアー参加者のアンケート対して、彼が言った一言に私は衝撃を受けました。

「アフリカの人の生活を心配する前に、自分が日本でしていることを考えろよ。」

プシューーーーーー・・・・・・ ・ ・
(↑私の思考が停止し、中身が抜けていく音)

私は、日本で自分がしていることなんて、振り返ったこともなかった。

確かに、ジェット燃料を使って海外に行って日本人が少々植林したところで、エネルギー的には無駄が多い。

それでも、彼が日本人を現地に連れていくのは、参加者の心の中に変化を起こしたいから。だから、NGO職員という枠を超えて参加者と関わり、私たちをいろんな企画に誘っていたのでした。

私は、会社では、

「アフリカで植林なんて、すごいね~。」

などと言われて、ちょっといい気になっていました。

あわよくば、どこかのNGOの職員枠でも紹介してもらって会社を辞めれるかも・・・なんてことも考えていたのです。

私は、いったい何をしているんだろう。

私に何ができるんだう。

私は何がしたいんだろう。

会社以外の世界が広がって、ようやく楽しくなってきたところにやってきた、大きな”問い”でした。

そんな時に、例のスタッフさんが「尾瀬自然観察スタディツアー」を企画。これが私と自然観察との大きな出会いになるのです

 

 

 

③今、この時を楽しむことが許される場所が自然の中だった。

NGOスタッフの一言に衝撃を受け、再び自分の居場所が分からなくなってしまった私は、そのNGO企画の「尾瀬の自然観察スタディツアー」に参加しました。

尾瀬沼の散策も初めてでしたが、自然ガイドさんに植物の名前や性質を教えてもらいながら散策も初めて。夜には、尾瀬の自然保護についての勉強会。

私は小さい頃から体力無し子ちゃんだったので、学校行事の山登りやハイキングはあまり好きではありませんでした。

ところが、この尾瀬沼散策は、とても楽しかったのです。

尾瀬に生きる植物の名前をメモし、じっくり観察したり、触ったりしながらの散策は、学校時代の、みんなと同じペースでダラダラと歩き続ける苦行とは全く別の体験でした。

そして、自然と触れ合っている時の自分の中の変化。

最先端の流行を追わなくてもいい場所。

流行がわからなくても、楽しめる場所。

今、このときを楽しむことが許される場所。

よし、私は「自然が好きな人」ということにしておこう。

今一つ会社になじんでいなかった私は、自分を「自然が好きな人」という場所に置いて、自己を安定化させることにしました。その頃、友人の紹介で知り合った男子たちもキャンプや登山好きな人々だったので、オートキャンプに連れて行ってもらったり、富士山や白馬岳に登ったり、スキーにもたくさん行ったなぁ。

合コンキャンプ。

合コン登山。

合コンスキー。

自然と触れ合う合コンは、ただの飲み会と違って本当に楽しかった。月曜から金曜までは会社で働き、土日は自然の中にお出かけ。金曜夜の深夜バスで出かけ、月曜朝に深夜バスで帰ってきてそのまま出勤、なんてこともありました。親には「休まなくて大丈夫なの??」と心配されましたが、若さもあってか平気でした。

今思えば、これが私の無意識での「森林療法」であり、「森林セルフケア」だったんだと思います。

そんな中、会社の出張帰りに高崎駅でふと立ち寄った本屋で出会ったのがこの本でした。

「自然の学校-プロが教える自然遊び術(BE-PAL OUTING MOOK)」

 

自然遊びが仕事になるなんて!!

そして私の、「いつかきっとインタープリター物語」が始まったのです。

1996年、27歳の秋のことでした

 

 

 

④いつかきっとインタープリター物語のはじまり

「自然遊びのプロフェッショナル」がいるなんて。

それが職業になるなんて!!

 

すげー~~~、

それ、あたしもなりたい!!!

 

ということで、その本に載っていた自然のプロフェッショナル養成講座の資料をとりよせまくり、参加しまくることにしたのでした。平日の昼間、会社の更衣室や会議室からこっそり電話。会社さん、ごめんなさい。

今、当時のその本が手元にあります。

「インタープリター養成コースを探す」

と書かれた付箋紙が今も本に張り付き、蛍光ペンで「養成コース」の部分にラインがひかれています。

 

インタープリターの説明は、こちらがわかりやすいかな。
一般社団法人日本インタープリテーション協会

環境教育については、こちらに書きましたのでご参照ください。⇒環境教育とは

 

そして、養成コースや資格取得に励み、

1996 ネイチャーゲーム初級指導員
1996~1998 キープ協会エコロジーキャンプ
1997 地球緑化センター中国内モンゴル自治区植林ワークキャンプ参加
1997 かしわネイチャーゲームの会で活動
1997 日本野鳥の会 レンジャー養成講座
1997 国際自然大学校キャンプカウンセラー養成コース
1997~1999 国際自然大学校日野春校いついつキャンプスタッフ
1997 森林インストラクター受験(→不合格)
1997 自然教育研究センターインタープリタートレーニングセミナー&山のふるさと村OJTトレーニング

同時進行で「レンジャー募集」「インタープリター研修生募集」という案内をみると、せっせと履歴書を送り、社会人入試で自然関係の大学を受験したりもしました。

次々と書類審査で落ちていましたが、唯一、合格したのが、NGO地球緑化センター「緑のふるさと協力隊」でのボランティアでした。山梨県芦安村(現南アルプス市)で、山村留学施設「チロル学園」で、スタッフを1年間するというもの。

プロフェッショナルのスタッフに学びながら、子供たちと一緒に自然遊びをして1年間過ごせるなんて!

喜び勇んで会社を辞め、私は山梨に向かったのでした

 

 

 

⑤生活の中に存在する自然

「オレは海賊王になる!!!」

でなくて、

「アタシ、いつかきっとインタープリターになる!!」

という思いを秘め、

NGO地球緑化センター「緑のふるさと協力隊」として、山梨県芦安村(現南アルプス市)に赴いた私。山村留学施設「チロル学園」での1年間のボランティアスタッフがスタートしました。

 

山村留学とは、小中学生が自然豊かな山村に一年間単位で移り住み、地元の小中学校に通いながら、様々な体験を積むというものです。⇒NPO法人全国山村留学協会

私が赴任したチロル学園は、子供たちが寝泊まりする寮スタイルの施設で、運営は芦安村(当時)の教育委員会でした。

子供たちと一緒に食事を作ったり、休日には草木染めやキャンプなどの自然体験をするというコンセプトに、ひゃっほ~と、浮かれて赴任した私。

 

まぁ、そんな甘いもんじゃなかったですね。

 

高校から会社まで、自分の感情をそんなに出さない「オトナ」な人々の中で生活をしてきた私は、小学校高学年から中学生の、感情むき出し、論理ぶっとびな主張に目がテン・・・・ ( ・ ・ )でした。

 

ここは金八先生のロケ現場ですか??

という毎日に、自然体験の前に日々の生活があるという、当たり前の現実を突きつけられたのでした。

それでも、畑で作った野菜を収穫して料理したり、北岳にみんなで登ったり、小中学校の運動会で保護者と一緒に走ったり、会社員の時にはできなかった体験をできた1年でした。

1998年、チロル学園キッチンにて。ここでみんなで食事を作っていました。

 

振り返れば、ただなんとなく自然遊びのプロになりたい~と思っていた私が、“生活の中に存在する自然”という概念に触れたのがこのチロル学園生活でした。

そして、、、。

ボランティアスタッフ任期の1年が終わり、私は山梨県に居残ることにしました。調剤薬局でパートとして働きながら、再びインタープリターを目指して就職先を探すことにしたのです。

日本自然保護協会(NACS-Japan)自然観察指導員資格をとり、国際自然大学校のキャンプスタッフをし、キープ協会のエコロジーキャンプに参加し、コネクションを求めて活動していました。

さらには、自然学校の事務スタッフにも応募しました。(だって私、OLだったんですもの。自然体験活動の経験は不十分でも事務仕事ならイケるはずだわ・・・・と思っていました。)

しかしながら全くご縁がなく、行き詰っていたところに目に入ったのが「漢方薬局」という看板。

そのころ参加した自然農法の川口由一(かわぐちよしかず)さんの講演で、漢方薬で体調を改善したという話も心に残っていました。

“生活の中に存在する自然”

という概念と、薬剤師である自分とがふわりと重なり、就職活動は漢方薬局をターゲットに方向転換。

このとき就職した東京の薬局が、たまたま漢方の他にもハーブ・アロマを扱っていたことが、のちのちの私に大きな影響を与えることになるのですが、それはまた、しばらくあとのお話。

こうして私は東京に戻り、漢方を扱う薬局に就職したのですが、まだまだインタープリターを諦めてはいませんでした。

漢方にまつわるその後の物語はこちら

東洋医学 学習の履歴書

 

 

 

⑥ポレポレ菜園な日々

私が東京に戻ってきたころ、タンザニア植林ワークキャンプのスタッフさんが、独自のNGO「タンザニアポレポレクラブ」を立ち上げて、「日本で畑を借りて、みんなで畑仕事をしよう~」という活動(ポレポレ菜園)を栃木県でしていました。

これは、まさに、”生活の中に存在する自然”を探していた私にとってはうってつけ。自分でいうのもナンですが、けっこう頑張りました。

自分の車を出して現地に行ったり、
独自に苗や種をホームセンターで買ったり、
宿泊時の食事作りの音頭をとったり、
燻製や豆腐作りをしてみたり。

私はタンザニアには1994年に1回行っただけでしたが、このワークキャンプは毎年開催されていたので、OB会のようなコミュニティが形成されていました。

大学生の若者が多く、私はちょっとお姉さん。

仕事は漢方系の薬局に落ち着きながらも(⇒東洋医学 学習の履歴書)、休日に若者と畑仕事をすることで、私はインタープリターっぽい自分を演出することにしたのです。

しか~し・・・。

頑張っているのに満たされない気持ちを感じるのは、割とすぐでした。頑張って自然の中に身を置いているのに、ココロが疲れていく自分を認めるしかありませんでした。

いつが最後だったか・・・。

私は畑に行くことはなくなりました。

それでも、あのころ頑張って畑遊びをしていた経験は、とても楽しい思い出です。

1か月に1回しか行かない畑なので、夏には腰丈ほどの草原と化してしまいます。

草原に分け入ると、大根みたいな巨大キュウリが出てきたり、真っ赤に熟れたピーマン(本来は普通のですよ~。)がでてきたり、何より、1か月間水やりも草取りもしないのに、野菜たちがワイルドに育っていく姿に、大地とつながっている力強さを感じたものでした。

ポレポレ菜園なころのワタシ

 

それにしても、青い鳥を探してジプシーしていた当時の自分のことを思うと、やっぱり、なんだか涙が出てきてしまいます。

これを書くことがレクイエムになるのかもしれません

 

 

 

⑦森林療法へのいざない

漢方を扱う薬局に就職したのちも、インタープリターへの憧れは残っていた私。

月一回ポレポレ菜園にも通いながら、同時に森林インストラクター試験に再チャレンジして合格。高尾山での親子観察会で1グループ5~6人程度を引率し、自然ガイドデビューを果たします。

先輩と一緒に下見をし、図鑑片手に一人でも下見をし、何度も何度も下見と本番を繰り返すうちに、徐々に自然観察をリードするコツをつかんでいきました。

さらに、就職した薬局がハーブやアロマを扱っていたので、同時進行でメディカルハーブの勉強を始めていました。

 

日本メディカルハーブ協会(JAMHA)がまだメディカルハーブ広報センター(MIC)と称していた頃、薬剤師であるグリーンフラスコの林真一郎先生と出会います。

2003年秋、私はグリーンフラスコ論文研究生に応募して「ハーブと環境教育」というテーマで研究&論文を書く機会を得ました。東邦大学のハーブガーデンでセミナーを実施させてもらい、アロマテラピー学雑誌に論文掲載。

アロマテラピー学雑誌5(1)35-48 (2005)
『アロマテラピーを起点とした環境教育の可能性―東邦大学薬学部付属薬用植物園メディシナルハーブガーデンでの試み―』

人生初の論文執筆、とても充実した毎日を過ごした日々でした。

グリーンフラスコ研究生卒業を控えたある日、林真一郎先生から赤坂溜池クリニックの降矢英成先生を紹介していただきました。

森林療法を始めるにあたり、人材を探しているとのこと。

「森林療法」

なんと魅惑的で、新しい響きだったでしょう。

ずっと憧れていた自然「森林」と、薬局やメディカルハーブで関わっている「療法」の合体した言葉。

「未来が微笑んでいる。」

当時の日記にはこう書いてあります。

生まれて初めて本当にそう感じました。

ここで私は「いつかきっとインタープリター」という思いに別れを告げ、「森林療法」という新たな世界へと足を踏み出していきました。

 

この物語もひとまずここで終わります。

しかし、私が私へと帰っていく本当の旅路はここから始まったのです。

 

「自然の中は、今このときを楽しむことを許される場所である。」

という思いを抱いて以来、森林や自然とつながった仕事をすれば自分は満たされると信じていました。(参考⇒いつかきっとインタープリター物語③)

しかし、自然との触れ合いに青い鳥を求めていただけでは、私が満たされることはなかったのです。

 

この続きは心の癒し、幸せになる力に気づく旅へと繋がっていきます。

「心と魂の癒し」旅の軌跡

 

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プロフィール

飯田 みゆき
飯田 みゆき森と魂のセラピスト