響律の魔術師、炎の巨人の響きを聴く

有能な秘書

要塞都市ヴァルハルト。

断崖絶壁にそびえるその街は、夜になると狂おしい熱気に包まれた。

ここ数週間、深夜になると突如として《炎の巨人》が現れ、街を焼き尽くしては、明け方に跡形もなく消え去るという現象が続いていた。

響律師レンと弟子のセナは、《炎の巨人》の正体を探ってほしいと依頼を受けて、この街にやってきていた。

 

「また出たのか……! 対策を急がねばな」

執政官室の豪華なデスクで、老執政官ヴァルナーが溜め息をつく。その傍らで、寸分の乱れもない美しい所作で書類を揃えていたのは、秘書のアルヴィンだった。

「ご安心ください、執政官殿。避難経路の再設計と警備兵の配置案は手配済みです。今夜中に処理しておきます」

アルヴィンは20代後半の、品格のある佇まいをした優秀な青年だった。どんな理不尽な急ぎ仕事も、執政官の身勝手な要求も、彼は一度も嫌な顔をせず「お任せください」と穏やかに微笑んで引き受ける。

「おお、アルヴィン! やはり頼りになるのはお前だけだ」

「勿論です。執政官殿のお役に立つことこそが、私の使命ですから」

 

そのやり取りを、部屋の隅で見つめていたセナが、少し首をかしげてレンに耳打ちする。

「……すごいね、あの秘書さん。いつでも完璧で、一度も怒ったり嫌がったりしないんだね。」

レンは銀色の音叉をポケットの中で弄びながら、静かに返した。

「どうだろう。『嫌だ』と思わない人間なんて存在しない。深く押し込まれている気がする。」

 

炎の核に眠る者

その夜。レンとセナは、街中心部の塔の屋上で静かに潜んでいた。

 

深夜2時。

街が静まり返った頃、巨大な冷気と熱気が交錯し、空間(界)が歪み始める。

街の中央広場に、突如として巨大な炎の質量が噴き出した。

暴走する赤と黒の炎が組み合わさり、頭丈十メートルを超える《炎の巨人》が立ち現れる。

「出た……! 《炎の巨人》だ!」

セナが大きく音叉を構えようとするが、レンはそっと制した。

「待て。まず『界(かい)』を観るんだ。」

レンがそっと音叉を奏でる。澄んだ音色が夜の空気を切り裂くと、視界が一変した。

暴れる巨人の灼熱の胸の奥——その核の領域に、透明な繭のような空間が浮かんできた。

そこにいたのは、パジャマ姿で穏やかな寝息を立てる青年だった。

「え……!? 嘘でしょ……!?」

セナは目を疑った。

「秘書の……アルヴィンさん……!?」

 

アルヴィンは完全に眠っていた。自分が炎の巨人の胸の中で、街を焼き尽くそうと暴れていることなど知る由もない顔で。

「どういうこと、先生!? 秘書さんが巨人を操ってるの?」

「いや。彼は操っていない。」

レンが静かに告げる。

「彼は本気で『自分は喜んで執政官に尽くしている』と思い込もうとしている。彼の悲鳴が眠っている隙に身体を抜け出し、この巨人を作っているんだ」

「眠っている間だけ、本音が身体の外へ出てしまうの?」

「昼間は『優秀な秘書』という響きが強すぎる。眠るとその響きが弱くなる。だから、押し込められていた声が界に姿を現すんだ」

 

翌朝。
何事もなかったかのように、アルヴィンは完璧なスーツ姿で執政官室に立っていた。目の下に少しクマがあるが、相変わらず爽やかな笑顔だ。

「昨夜も巨人が出ましたね。すぐさま被害補償の手続きを……」

「だいぶお疲れのご様子ですね。昨日は眠れましたか?」

レンが尋ねると、アルヴィンはちょっと困った顔をした。

「自室で書類を処理しておりましたが……あまりの疲労に途中から記憶がなく、ベッドで倒れるように寝てしまったようです。」

「そうですか。大変そうですね。」

アルヴィンの瞳の奥で、黒い炎が小さく揺らめいた。

「それでは、私は仕事が残っているので失礼いたします。」

アルヴィンは、それ以上の応対を拒絶するように背を向け、去っていった。

 

その日の深夜1時。昨日までの比ではない、街の半分を覆うほどの超巨大な炎の巨人が出現した。

巨人は悲鳴のような咆哮を上げながら、執政官の屋敷へ向かって歩き出す。

「助けてくれぇぇッ! 誰かあの怪物を倒してくれ!」

老執政官が逃げ惑う。

巨人の胸の奥で、アルヴィンは深海に沈むように眠っていた。しかしその顔は苦痛に歪み、うなされている。

「先生。私にあの巨人の『声』を聴きに行かせて。」

「うん、行ってこい。」

セナは音叉を激しく打ち鳴らし、塔の屋上から、炎の巨人の核——透明な繭の中へと跳んだ。

 

 

透明な繭の中

繭の中は、無数の「書類」と「執政官の怒号」で埋め尽くされた灰色の部屋だった。

その中央で、書類を抱えたアルヴィンの影が縮こまっている。

「アルヴィンさん!!」

セナは、散らばる書類とアルヴィンの青ざめた横顔を交互に見つめた。

「……アルヴィンさん、なんでそこまでやるの? 街のため? 執政官のため?」

「……それが私の役割だからです。期待に応えることが、私の価値なんです。断ったら……断ったら、私には何も残らない……!」

アルヴィンは震える手でさらに書類を掻き集めようとする。その姿は、まるで目に見えない何かに怯える子どものようだった。

セナの胸がギュッと痛んだ。 セナはアルヴィンの手を握った。

「……ねえ、アルヴィンさん。毎日毎日、自分の寝る時間も削って、どんな理不尽なこと言われても笑って……。みんなの期待に応えるために仕事をして……。」

セナは膝をつき、アルヴィンの目線を覗き込んだ。

「……本当に、一回も『嫌だ』って思ったこと、ないの?」

アルヴィンの手が、ぴたりと止まった。

「……え?」

「どんなに頼りにされても、どんなに仕事ができても……とっても苦しそうに見えるんだけど。」

セナの声は優しく響いた。

「断ったら、本当にアルヴィンさんの価値はなくなってしまうのかな。」

アルヴィンは呆然とセナを見つめた。

「子どもの頃から、褒められるのは役に立ったときだけでした。だから、頼まれたことを断ると、自分が空っぽになる気がするんです」

灰色の部屋に、しんと静けさが広がる。

そこへ、レンの奏でる音叉の澄んだ音が、繭の中全体に波紋のように染みわたる。

キィィィィン―――――……。

「アルヴィンさん」レンの声が静かに届く。 『「断ったら価値がなくなる』のは誰の声ですか?」

「父の声です。昔から、そう言われてきました。」

「誰かの期待に応えるためではなかったとしたら……あなた自身は、どうしたいんですか?」

「私は……どうしたい……??」

アルヴィンは自分の胸に手を当てた。 今まで「優秀な秘書であるべき」という完璧な仮面で塞ぎ込んでいた蓋が、ゆっくりと持ち上がっていく。

「私は……」

ポロリと、アルヴィンの目から涙がこぼれ落ちた。

「私は……本当は……あんな理不尽な怒鳴られ方をするのは、嫌だった……。 徹夜続きで体が千切れそうなのに『頼むぞ』の一言で流されるのも、嫌だった……。」

一粒溢れ出すと、ずっと押し殺してきた言葉が堰を切ったように溢れ出した。

「私はロボットじゃない! 自分の生活も、眠る時間も、尊厳だってある人間だ!! 『嫌だ』って……『いい加減にしろ』って、本当は、ずっと叫びたかったんだ……!!」

アルヴィンは顔を覆い、その場に崩れ落ちた。

「……それでも、この仕事は好きだった。本当は、この街の未来に関われるこの仕事が……好きだったんだ。」

アルヴィンが、自分自身の口で本当の気持ちを吐き出した瞬間。

灰色の部屋を覆っていた巨人の炎は、アルヴィンの身体へと静かに引き戻されていった。

 

静かな執政官室

翌日。静けさを取り戻した執政官室。

老執政官ヴァルナーは、青ざめた顔で書類を抱えていた。

そこへ、ノックの音が鳴りアルヴィンが入ってくる。その表情は穏やかだが揺るぎない落ち着きに満ちていた。

「ア、アルヴィン……! 昨夜の混乱の整理はどうなっている! 早く手配を……」

アルヴィンは静かに一礼し、デスクの上に何枚かの書類を置いた。

「執政官殿。これらは本日分の業務計画書です。……それから、もう一枚は私の『条件提示書』です」

「条件……だと?」

「はい。『これからは、夜の鐘が三度鳴ったら帰ります。一人で抱えられない仕事は、引き受けません。私の判断で動ける仕事を増やしてください。』これらが守られない場合、私は本日をもって秘書を辞任いたします」

老執政官は呆気にとられた。

「私を脅す気か!? 代わりなどいくらでも……」

「いいえ、脅しではありません。提案です」

アルヴィンはまっすぐに執政官の目を見つめた。

「私は、この要塞都市の仕事を誇りに思っています。ですから、これからもここで秘書を続けたい。ですが、そのためには、私自身をすり減らさずに働ける形が必要です。私が壊れてしまえば、結局、この街のお役には立てませんから。」

執政官はアルヴィンの眼差しに気圧され、言葉を失った。

アルヴィンは決して腹を立てているわけでも、冷酷になっているわけでもなかった。

「認めんぞ!」

「承知しました。」

「……何?」

「認めていただけなくても、この条件で働きます。受け入れられない場合は、辞任します。」

執政官は、条件提示書をじっと見つめた。

「……勤務時間を減らして、仕事が滞ればどうする?」

「業務を分担します。」

「誰と?人を増やせというのか?」

「必要なら、そう提案します。」

「フン。」

執政官はぶつぶつと文句を言いながらも、条件提示書にサインをした。

 

街の広場。青空の下で、セナとレンが旅立ちの準備をしていた。

「アルヴィンさん、本当に辞めなくてよかったの?」

セナが尋ねると、アルヴィンは柔らかく微笑んだ。

「ええ。引き受けるのも、断るのも、自分次第だと気づけましたから。……前は、この仕事から逃げられないと思っていました。でも今は、辞めることもできると知っています。それでも私は、ここに残りたい。同じ仕事なのに、不思議ですね。今は、少しだけ息がしやすい。」

アルヴィンは二人に深く頭を下げた。

二人は静かに手を振り、この要塞都市の断崖絶壁の階段を降りていった。

 

一人になったアルヴィンは、断崖の向こうに広がる街を見た。

「この街のためには、自分を削るしかないと思っていた。でも今は、自分を守りながらこの街を守りたい。」

風が吹いた。

炎の巨人が現れていた広場には、もう何もなかった。

ただ、朝の光が、要塞都市の石壁を静かに照らしていた。

~fin~

 

 

プロフィール

飯田 みゆき
飯田 みゆき森と魂のセラピスト
薬剤師/公認心理師/産業カウンセラー/プロセスワークプラクティショナー/森林インストラクター/森林セルフケアコーディネーター/メディカルハーブプラクティショナー/ドルフィンスターテンプル認定ヒーラー/日本森林療法協会元理事

Follow me!