響律の魔術師、氷の街の響きを聴く

港町フロストヴェイル

雪は静かに降り積もっていた。

海沿いの港町《フロストヴェイル》。

数年前、巨大な冬の暴風雪によって街の漁船の大半が海へ呑まれ、多くの命が失われた場所だった。

 

けれど、街に悲壮感はなかった。 港では男たちが威勢よく網を繕い、市場では女たちが温かなスープを配り、子どもたちは明るく笑いながら雪玉を投げ合っている。

「前に進もう!」

「泣いたって、居なくなった人は戻らないんだ!」

「強く生きることこそが、亡くなった人たちへの一番の供養だ!」

看板や壁の至る所に、そんな標語が掲げられていた。 整然としていて、あまりにも前向きで、活力に満ちた街。

 

しかし、息を吸うと、胸の奥がキーンと痛むほど冷たい。気温のせいだけではなかった。

「……先生、この街、みんなあんなに笑って復興を目指してるのに、なんだかすごく……寒いです」

街の中央、かつて祈祷所だった広場の頭上には、巨大な氷の結晶が宙に浮かんでいた。 輝くような透明度を持ちながら、どこか禍々しい圧迫感を放っている。

「あれは……?」セナが呟く。

レンは足を止め、銀色の音叉を取り出すと、雪の積もった石畳へ静かに触れさせた。

キィン―――……。

澄んだ音色が広がる。 その瞬間、セナの視界に『界』が立ち現れた。

 

人々の体から伸びる無数の糸。 しかし、その糸はすべて、分厚い氷の膜に覆われて固まっていた。 街の人々は笑顔で会話を交わしている。

だが、彼らの胸の奥、心臓のあたりには、決して表に出されることのない「青白い液体の塊」が、冷たく凝固したまま溜まり続けていた。

「氷の結晶は、あの巨大な塊だけじゃない」レンが静かに言う。「人々の胸の中で、何かが凍りついているんだ」

 

網を縫う女性アリア

二人は、港で一人静かに網を縫う女性・アリアに声をかけた。

アリアは夫と二人の息子をあの事故で一度に失って、今はひとりで暮らしているのだという。

「辛い事故でしたね」セナがそっと言葉をかけると、アリアは完璧な、崩れない笑顔を浮べた。

「いいえ! 悲しんでいたら、家は守れません。私が落ち込んだら、あの子たちだって浮かばれないでしょう? 前を向いて、強く生きて、この街を昔より立派に復興させる。それが私の使命なんです。」

ハキハキとした、澱みのない声。けれど、その目の奥には絶望の深淵が広がっていた。

 

「アリアさん」レンはぽつりと尋ねた。「悲しんでいたら、皆さん浮かばれないんでしょうか。」

「はい。私が笑って前に進むことを望んでいると思います。」

「そうなんですね・・・。」

レンは音叉を軽く地面に打ち付けた。

キィィィン―――……。

 

アリアの笑顔が、ほんのわずか、氷に亀裂が入るようにぴくりと固まった。

「泣いたって誰も戻ってこない。泣くのは時間の無駄で、弱さです。私は強い母親でいなきゃいけないんです」

アリアはそう言って笑い直し、作業に戻った。 だが、彼女の胸の奥にある青い氷は、さらに一回り大きく、冷たく膨れ上がっていた。

アリアの家の奥には、事故以来、一度も開けていない小さな部屋があった。

夫の漁帽。息子たちが海へ持っていった木の笛。壁に掛けられた家族の古い写真。すべて、あの日のまま残されている。

その日もアリアはその部屋の前まで来た。扉に手を伸ばしたが、触れる直前で手を引っ込める。

そのとき、昼間にレンが鳴らした音叉の音が耳元で響いた。

・・・キィィィン―――……。

『開けたら……本当にいなくなったって認めることになる。』

『私は強い母親だから。この街を守らなきゃ。』

 

アリアは再び笑おうとしたが、笑顔は途中で崩れた。

胸の奥で、小さな声が震えていた。

『でも……会いたい。』

アリアは扉に額を当てる。

『父さんの声を聞きたい。』

『あなたたちの足音を、もう一度聞きたい。』

 

「ダメ。そんなこと思ったら、前に進めない。」

彼女はすぐに背筋を伸ばした。

そしてまた、いつもの笑顔を作った。

その夜。街が眠りについたあと。アリアは一人、港へ向かった。

誰もいなくなった海の前。

「……寒いね。」

誰もいない海へ話しかける。

「昔は、この海を見ると安心したのに。」

風が吹く。

返事はない。

アリアは唇を噛む。

泣いてはいけない。

そう思うほど、胸の奥が苦しくなる。

「私は大丈夫。」

何度も言う。

「大丈夫だから。」

けれど、声は震えていた。

「……嘘。」

初めて、自分で自分の言葉を否定した。

膝を抱える。

「大丈夫じゃないよ。」

「全然、大丈夫じゃない。」

涙が一粒落ちる。

それをきっかけに、堰が切れた。

「帰ってきてよ……。」

「お願いだから……。」

 

目の前には、誰かが落としていった木の笛が転がっていた。

「もう一度だけ、『ただいま』と言って……。」

溢れた涙はポロポロと途切れることなく頬を伝い、雪の上にポタリと落ちた。

凍っていたアリアの悲しみは、初めて温かな涙になった。

 

《悲しみ》の界震

翌朝。 頭上の氷の結晶が突如として不気味な鳴動を始めた。

ゴゴゴ……キキキッ……!

結晶から冷気が吹き荒れ、街全体が急激な猛吹雪に包まれる。吹雪の中に、人々の姿をした透明な『影』たちが現れた。

それらは顔を覆い、声もなく身体を折り曲げている。閉ざされていた 《悲しみ》の響影が起こした界震だった。

 

「ひいっ! 魔物だ!」

「前を向いて生きているのに、なぜこんな災厄が!?」

逃げ惑う村人たち。響影たちは村人たちに襲いかかるわけではない。ただ、凍えるような冷気を撒き散らしながら、絶叫のような悲鳴を上げている。

『行かないで』

『置いていかないで』

『寂しい』

『会いたい』

『どうして私を置いて逝ってしまったの』

街の人々が「そんなことを思ってはいけない」「強くあらねばならない」と押し殺してきた声たちが、暴風となって街を破壊し始めたのだ。

 

セナは前に飛び出した。音叉を構える。深く息を吸い、凍りつく広場の中央で、音叉を石畳に強く叩きつけた。

キィィィィン―――――……!

響きが吹雪を切り裂く。

『会いたい』

『忘れたくない』

『大切だった』

響影たちは、さらに大きく叫び、冷たい吹雪となって街を覆った。

 

一人の老人が膝をつく。

「……マルク。」震える声で名前を呼ぶ。「お前が好きだった魚、今年も獲れたぞ。」

隣にいた女性が泣き出す。

「リオ……。あなたの作った船、まだ港にあるよ。」

別の男も顔を覆った。

「息子よ……。最後に、もっと話せばよかった。」

街中に、名前が広がっていく。

ただ「亡くなった人」ではなく。

ただ「過去の人」でもなく。

一人ひとりの大切な存在として。

「父さん!」

「母さん!」

「兄さん!」

街中から、押し殺されていた咽び泣く声が上がった。 何百人もの「声なき叫び」が、一つの大きな合唱となって空へ響き渡る。

レンもまた、静かに歩み寄り、吹雪の中で音叉を鳴らした。 その音色は、凍えきった世界に差し込む陽光のように暖かかった。

 

その瞬間。

空に浮かんでいた巨大な氷の結晶に、一筋の大きな亀裂が入った。

パキィィンッ―――!

結晶は爆発するように砕け散った。 しかし、鋭い破片となって人々を傷つけることはなかった。 砕けた氷は、空中でやわらかな「雨」へと姿を変えたのだ。

何年もの間、冷たい雪しか降らなかった港町に、温かな春の雨が降り注ぐ。

響影たちは消えていくのではない。 雨の雫となって、人々の頬を濡らし、静かに土へと染み込んでいった。

『ありがとう』

そう囁く風の音が、雨の中に混ざっていた。

 

虹のかかる道

数日後。

港町《フロストヴェイル》の雪はすっかり溶け、湿った黒い土からは、小さな青い花が芽を出し始めていた。

街の人々は、相変わらず復興作業を続けている。 けれど、その表情は以前のような「張り詰めた完璧な笑顔」ではなかった。

作業の合間にふと手が止まり、亡き人を想って涙ぐむ者がいる。 それを隣の者が黙って肩を抱き、一緒に静かに佇んでいる。 泣いたあと、彼らは少し照れくさそうに笑い合い、また手を動かす。

そこには、本当の意味で生きている人間の、あたたかな時間が流れていた。

 

街を出るレンとセナを、アリアが見送りに来ていた。 その目は少し腫れていたけれど、晴れやかだった。

「私、これからも時々泣くと思います。思い出しては、立ち止まると思います。」

レンは穏やかに頷いた。

「はい、それでいいんです。悲しみは、一度泣けば終わるものではありません。思い出すたびに、また涙が出ることもあります。」

アリアは少し俯いた。

「それでも、前に進めますか?」

「ええ。泣くことも、立ち止まることも、前へ進む途中にあるものです。」

 

セナは胸の音叉にそっと触れた。

悲しみの響きは、消えていなかった。

ただもう、街の底で凍ってはいなかった。

 

二人は、春の雨が上がったばかりの、虹のかかる道をゆっくりと歩き出した。

プロフィール

飯田 みゆき
飯田 みゆき森と魂のセラピスト
薬剤師/公認心理師/産業カウンセラー/プロセスワークプラクティショナー/森林インストラクター/森林セルフケアコーディネーター/メディカルハーブプラクティショナー/ドルフィンスターテンプル認定ヒーラー/日本森林療法協会元理事

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